世界大戦中の1944年7月、戦争も末期になってから、政府は国民学校初等科3年以上6年までの児童を郊外に疎開させる「集団疎開」を決めた。爆撃されて一家全滅にならぬよう、せめて児童だけでも生き残るようにとの配慮からだった。まず、東京都区部や大阪などの大都会13都市が指定されたが、翌45年4月には広島市も追加された。親類宅が田舎にある者は縁故疎開をしたが、それもできない児童は郡部の寺院や集会所などに集団で寝泊まりして地元の学校にかようことになった。

2年生以下はあまりにも幼いので疎開しなかったが、3年生とて突然親元を離れての集団生活は過酷なものだった。おまけに大変な食糧難の時だったから食べるものもなく、量は少ないうえに、家で食べていたものとは違うし、味も違う。夜は大広間に敷き詰めた敷布団3枚に5人くらいが寝る雑魚寝。空腹だし、親は恋しいしで、毎晩、一人がシクシクと泣き出すと、やがてほぼ全員が泣き出したという。

このように悲しいばかりの毎日だったが、4か月もたたない8月6日、広島に原爆が投下された。そして8月15日に終戦。まもなく疎開先に親や親戚の者が来て、疎開児は一人また一人と引き取られていった。ところがいくら待っても、誰も来ない子がいた。疎開していた子供たちは爆心地から1キロ以内にある小学校の生徒が多かったので、原爆孤児になってしまったのだ。

「蝉しぐれ僧は告げけり疎開子に原爆孤児になりたることを」

終戦の年の暮の1945年12月に、僧侶でもあった山下義信氏は、復員直後に、原爆や戦争で家族を亡くした子供たちを養育する施設「広島戦災児育成所」を私財をなげうって広島市郊外の五日市町に開設された。寺院などに取り残されていた疎開児は中間施設を経て、12月にこの育成所に送られた。そのほか、迷い子収容所や行き場を亡くして広島駅付近にたむろしていた浮浪児などが随時この施設に収容されて、1946年3月には3歳から16歳の子供たちが60人育成所にいた。

私は原爆の翌年に1年生になって、五日市小学校に入学した。戦災児育成所が学校区内にあったので、学校には育成所から通ってくる孤児がたくさんいて、私のクラスにも孤児が三人いた。Y君は5歳だったので疎開はせず、祖父、母、3歳の弟と一緒に住んでいたが原爆で家が崩壊。Y 君は頭のてっぺんから額まで10センチくらいも頭が割れる大怪我をした。しかし、一緒にいた祖父、母、弟は奇跡的に無傷だった。ところが3週間後に母が亡くなり、続いて祖父も亡くなった。弟も衰弱して餓死した。目の前でつぎつぎと皆が亡くなったのだ。5歳のY君はたった一人で残された。その後どのようにして生きたのか、翌年1月に広島駅で浮浪児になっているのを見つけられ、育成所に収容された。後で保母さんが言うには、あと3日発見が遅かったら、多分、餓死していただろうとのことだった。

親が亡くなって孤児にはなったが、親戚に引き取られた疎開児もいた。4年生だったS子さんは原爆未亡人になった子なしの叔母にひきとられた。ところがこの叔母は一年後に原爆症で亡くなってしまった。再び一人になったS子さんも育成所に収容された。このように育成所の孤児は戦後2・3年たっても、どんどん増えていった。

孤児にはお父さん、お母さんという言葉が日常生活になくなっていたので、所長さんを「おとうさん」保母さんを「おかあさん」と呼んでいると聞いた。私は父を原爆でうしなったが、母はいる。お母さんがいるなんて、私は何と幸せなんだろうと思っていた。

育成所で4・5年暮らすと義務教育の終わる中学卒業になり、施設を出る子もいた。しかし、中卒の孤児に行き場はなかったので、たいていは近くの町工場に住み込みで働くことになった。住み込みなので昼働くのは勿論で、夜も日曜も働かされ、休みなどはなかった。女子はそれに家事などの女中代わりの仕事も加わった。しかし、中には理解のある工場主もいて、夜間高校にかよわせてくれたり、通信教育で高校卒業資格を取る孤児もいた。

1950年に朝鮮動乱が始まり、疲弊していた日本経済は特需で好景気となった。戦後、すぐには孤児となった姪や甥を引き取らなかった親戚の者たちも、生活が安定してきて、孤児の大学進学や就職の際に、身元保証人になってくれたりするようになったので、施設を出た孤児も、うまく独立できた人もいる。

この広島戦災児育成所は1961年に広島市童心園と名前を変え、創設以来22年を経て、1967年に閉館になったという。

2000年を過ぎた頃に五日市小学校の同期会をしたことがある。育成所を出てからの孤児たちにはそれぞれの人生があった。

「五人もの原爆孤児いる同期会ホームレスおり名誉教授おり」